アンネ・フランク最後の地を訪れて【ベルゲンベルゼン収容所】 [ドイツ]

今回は少し重いテーマになってしまいますが、同時に今現在に起きている様々な世の中の問題などを深く考えるきっかけになりました

何度かこのブログを書きかけたのですが、書きたいことは沢山あっても、それが思うように伝わらないのではとか文章になって自分の元に降りて来なくてしばらくはなかなかこのテーマに手を出すことは出来ませんでした


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前回の記事のブレーメンを後にして次に向かった先は


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ベルゲンベルゼン強制収容所です
場所はフランクフルトとハンブルグの途中です

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ベルゲンベルゼンにはガス室はなかったものの他の収容所で使えないとわかった人々がこの地に送り込まれ、虐待され放置されたのが、この場所です

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私たちが目にしたことがある、記憶の隅にある収容所の写真で痩せこけた遺体が大量に埋められている光景、実は英国軍によって解放された時に撮影されたものである


アンネ・フランクもそうであったように伝染病が蔓延していたために収容所は燃やされてしまい跡形もない


使用感に残るバラックにあった持ち物
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アウシュヴィッツは大量殺人の場所で、ベルゲンベルゼンは人間を放置して朽ち果てるに任せた場所だと


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家族の中でただ一人生き延びた、オットー・フランク氏はスイスのバーゼルで亡くなるまで一度もベルゲンベルゼンを訪れようとしなかったそうです

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資料館を後にして収容所跡地にに向かう途中に、墳墓が至る所にあるのに気が付いた(赤い矢印)


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ここに2500人眠る


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ここに1000人眠る


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場所によっては5000人眠ると書いてあった


その近くに一部個人の墓碑があり、しかしその下にはその個人は葬られてはいない


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アンネ・フランクとその姉マルゴーの墓石もあった
そこにはアンネ達がここベルゲンベルゼンで命を絶ったと示すのみで彼女らの遺体がこの下に葬られている訳ではない


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2年間で17万人を超える死者を出したという説もあり
アンネ・フランクや姉のマルゴーもこの至る所にある墳墓のどこかに一つの遺体として眠っている


以下青文字の文章はこちらのページから抜粋させて頂いております
http://lesvoyages.fc2web.com/deutsch/deutsch9.html

この収容所で、黙示録さながらの歴史が最後の月を迎えたとき、日に日にうず高くなる死体の山との絶望的な戦いを、死体処理班はすでに放棄していた。ベルゲン=ベルゼンの元囚人ハンナ・レヴィ=ハスは秘密の日記にこう書いている。「生きていたり死んでいたりする他者の亡霊たちに囲まれて、わたしは残されたこの半分だけの命を使いはたしてしまうだろう。死体が、現実の死体が、いつも傍にある。ベッドに横たわっている」。寝台の上に、バラック棟の間に、道端に、死体が転がっていた。春の太陽で緑色に変色し、ありとあらゆる腐敗の段階を見せていた。強烈な悪臭は数キロメートル離れた所にまで達した。「あの臭いは表現のしようがありません」と、アニタ・ラスカー・ウォルフィッシュは語る。「ベルゲン=ベルゼンそのものが一個の死体の山でした。腐敗しかけている死体以外のなにものでもありませんでした」
 グイド・クノップ『ホロコースト全証言』pp.392-394

アンネ・フランクが最期に見た光景とは、このようなものであった。
彼女はその鋭い観察眼で、聡明な頭で、どのように目の前の現実と対峙したのだろうか。すでにペンも紙も奪われて久しかったが、彼女は頭の中のノートに何か書きつけたのではないだろうか。ものを書くことを習慣にしている人がみなそうするように。そこに書かれたのはどのような言葉だったのか。――私たちがそれを知ることは永遠にない。ベルゲン=ベルゼンが英軍によって解放された時、アンネ・フランクはすでにこの世の人ではなかった。


また、このベルゲン・ベルゼンは「美しき野獣」と呼ばれたイルマ・グレーゼという女看守が居た場所でもあります
彼女は22才の時あのハーメルンの刑務所で絞首刑となりました


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彼女は「美しき野獣」「ブロンドの天使」「金髪の悪魔」として歴史の舞台に登場しています


裁判でのグレーゼの具体的罪状は、特にアウシュヴィッツにおいて

囚人への殴打、ガス室送りが決まった囚人に犬をけしかけたこと、囚人へのその他の虐待行為、囚人の射殺、ガス室送りの選別への参加


たった20才そこそこの女性がなぜと頭が混乱しました




女優のオードリー・ヘップバーンは晩年をスイスで過ごしました

あまり知られてなかったのですが、オードリーはアンネに特別な思いがありました

彼女もユダヤ人ではなかったですが、アンネと同じような境遇にいて
アンネと彼女はまた同じ年でした

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WikiPedia より抜粋

オードリー・ヘップバーン

オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられた。オードリーは栄養失調のため急性貧血症で浮腫み、呼吸困難、水腫に罹り、黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院する、入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れたペニシリンで九死に一生を得る


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1957年、28歳の時 映画「アンネの日記」の出演依頼が来ますが、あまりにつらすぎてアンネ役は演じられない、「私はアンネと似過ぎている」として辞退しています。

時は流れ1990年、オードリーは61歳の時、多くの子どもたちに慰めを与え、ユニセフの活動の役に立つためと『アンネ・フランクの日記』のチャリティコンサートでアンネの日記を朗読し、収益金をユニセフを通じて恵まれない子供たちに寄付たそうです


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以前アムステルダムのアンネ達の隠れ家を見に行った時の記事です
アンネ・フランクの隠れ家を訪ねてアンネの日記の原本を見た



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